国内旅行: 鎌倉 (松鶏会の歴史探訪で関西からのメンバーに同行して)

Kamakura Sight Seeing with my Friends from Kansai

2009年5月12日:
会社への同期入社者で作る松鶏会のメンバーが関西から十人ほど鎌倉歴史探訪で来訪された。
関東のメンバーも若干加わり、建長寺・寿福寺・八幡宮・大仏など歴史に詳しい滝内氏の説明で
内容の濃い歴史探訪になった。 同行した諸兄からの写真も使わせて頂いた。お礼申し上げます。
尚、写真の説明は滝内さんの資料や解説を利用させて貰っています。

建長寺は私の菩提寺の本山で、10月に檀徒としてのお参りがあって参加した。その時の写真も
参考に加えている。      

探訪の経路:

北鎌倉駅〜(バス)〜建長寺〜亀ヶ谷坂〜化粧坂〜源氏山〜寿福寺〜鶴岡八幡宮〜頼朝の墓
(大倉幕府跡)〜鎌倉宮〜(バス)〜鎌倉駅〜(江ノ電)〜昼食(ドイツ料理・シーキャッスル)〜大仏
〜(バス)〜六地蔵〜(バス)〜元八幡〜(バス)〜鎌倉駅(関西からの方の大部分は解散)〜
(更に関東組みなど一部は)宇津宮辻幕府跡〜若宮大路幕府跡〜鎌倉駅

●印は訪れた場所を示す

探訪した神社・仏閣・旧跡を写真でご案内


建長寺: 臨済宗建長寺派の大本山、山号は巨福山 寺号は建長興国禅寺
1253年の創建、本尊は地蔵菩薩、開基は南宋から渡来した蘭渓道隆 鎌倉五山の第一位

三門(重文):1775年建立関東大震災で倒壊、再建された

三門の上層には宝冠釈迦如来像や五百羅漢が安置

総門、三門、仏殿、法堂、方丈が一直線に並ぶこの伽藍
配置は中国淅江省の径山万寿寺を模し本格的禅宗様式

ビャクシン:8株植えられている大覚禅師お手植えとか
最大の樹は胸高幹囲は7.36mである


仏殿(重文):増上寺の秀忠夫人崇源院を移築したもの

仏殿内部には地蔵菩薩坐像

法堂(重文):禅宗以外の講堂に相当、1814年創建

法堂には千手観音菩薩を安置、天井に龍が描かれる

唐門(重文):秀忠夫人崇源院を移築したもの

方丈:竜王殿と云われ、京都般舟三昧院から移築

庭園:蘭景道隆とか夢想国師作とか、改築多く当初の姿なし

梵鐘(国宝):高さ2.1m、創建当初からの数少ない遺品

西来庵:蘭渓道隆の墓塔を守る塔頭寺院、修業道場がある

修業道場:「起きて半畳寝て一畳」の様子



化粧坂:鎌倉へ入る切通しの一つ、名前の由来は平家の
大将の首実検をする時、化粧した遊女がいたとの説あり

S字の険しい坂道、頂上は源氏山、汗拭き拭き登る

化粧坂の土質は深沢凝灰粗粒砂岩層で貝殻の化石含む

頼朝像:1980年建てられたもの

寿福寺の大仏次郎の墓

俳句の虚子の墓
さえずりや立子の墓見る虚子の墓(成瀬正俊作)
星野立子は虚子の次女、向き合って建つ墓を見落とした

北条政子の墓

北条政子の墓の説明をする滝内さん

寿福寺山門
寿福寺の開山は栄西、開基は実朝(頼・政子?)

八幡宮の大銀杏の下で、参加の皆さん

護良親王を祀る鎌倉宮

護良親王が幽閉された牢獄

ドイツ人経営のドイツ料理店シーキャッスルにて

昼食はドイツ料理

大仏をバックに参加の皆さん

大仏は1243年木造で完成し、1252年青銅で完成する
木造は鋳造鋳型の原型であったとの説もある
金メッキされていた残りと見られる痕も見られる

大仏内部
1960,61年頚部を強化プラスチックで補強、台座は免震構造

六地蔵:やや北に刑場があった、罪人の霊を弔う為の地蔵
元八幡:
源頼義が奥州征伐勝ち、岩清水八幡神を勧請し建立
子の義家は奥州に赴く途中参詣し、社殿を修復した
頼朝は鎌倉に居を定め、今の八幡宮に社殿を移した
その後はここを元八幡(鶴岡由比若宮宮)と呼ぶようになった

源義家公が旗を立てた松の痕跡

宇津宮辻幕府旧跡:
北条泰時は平安京をモデルに鎌倉の街づくりを構想、
政子の死後、大倉御所からの移転を敢行した。(1225年)

若宮大路幕府跡:
将軍頼経が度々病魔に襲われ、宇津宮辻子の土地の神の祟り
と考え1236年ここに移築し、幕府滅亡まで、幕政をここで行う