ウイーン市内観光(シェーンブルン宮殿・ベルヴェデーレ宮殿他)・ウイーンの森観光・明くる日は帰国へ

Sightseeing at Wien City and Wienerwald


6日目:午前はシェーンブルン宮殿とベルヴェデーレ宮殿を見学
     午後は市の中心的教会シュテンファン寺院を観た後、オプション観光として5人だけのウイーンの森
     観光に観光タクシーでガイドと共に出かける。帰って王宮やオペラ座、マリア・テレジア公園等、内部
     に は入らない観光をし、日本食レストランで夕食を取り、地下鉄を使いホテルへ戻る。

ウイーンハプスブルク家の繁栄のもと、オーストリアの首都として発展した。荘厳華麗な宮殿や教会、美術品
コレクションの充実度はヨーロッパ随一。モーツアルトやベートーベンなど大音楽家が活躍した音楽の都でも
あり、国立オペラ座や樂友協会へ足を運ばば、ハイレベルの演奏が聴ける。



 
ウイーン市内地図

 ウイーン市内俯瞰図
 

ハプスブルク家:発祥はスイス東北部〜ドイツ聖南部の一帯。この辺りを支配していたが、1273年 ルドルフ1世
が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたのをきっかけに、紆余曲折はあったが、めきめき頭角を現す。「戦いは
他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ」のマクシミリアン1世の有名な言葉がハプスブル
クの家訓となり、王家を発展させた。戦争でではなく、結婚政策に因って国を発展させた。「日没なき大帝国」と
呼ばれた無敵の王国も1859年のイタリア戦争でで敗北、以来第一次世界大戦に突入、1918年崩壊する。
シェーンブルン宮殿:ウイーン南西部に建つ。皇帝レオポルド1世がベルサイユ宮殿を凌ぐ大規模宮殿を造る
事を建築家フィッシャー・フォン・エアラッハに命じたが、財政難で小規模なものが造られたが、1743年マリア・
テレージアの命で、大改築が行われ、今日の姿になった。「シェーンブルン」の由来は17世紀初頭、皇帝マティ
アスが狩猟小屋近くで、美味しい水が湧き出す「美しい泉」を発見、そのドイツ語「シェーンブルン」である。 



ハプスブルク家の家系図 

上はシェーンブルン宮殿の配置図
下は公園側から見たsh−んブルん宮殿(ガイドブックから転写)

上の写真は中庭からシェーンブルン宮殿をパノラマで           下の写真は中庭から入り口方面をパノラマで

シェーンブルン宮殿内部の配置図

左の部屋の番号に対比した部屋の説明

シェーンブルン宮殿庭側の屋根の上 ハプスブルク家の紋章

若き日のフランツ・ヨーゼフ1世とマリア・テレージア
テレージアは女王で、16人の子をもうけ、国政を取り仕切る

大ギャラリー:宮殿最大の広間
長さ40m、幅10m、舞踏会や晩さん会の会場となる

ローザの間
ハプスブルク発祥地スイスのハビヒツブククの古城の絵が有る

漆の間:夫に先立たれたマリア・テレージアが
夫との思い出の部屋として改装、壁面の漆塗りは北京製

丸い中国の小部屋
テレージアの大のお気に入りだった。日本・中国の漆器が並ぶ

宮殿裏庭の広大な庭園

美しい花で飾られた裏庭

グロリエッテとネプチューンの泉の全景
グロリエッテは小高い丘に聳える。1775年軍事的記念碑として建立

 裏庭に出る途中の庭園もゆったり

マリア・テレージア家族の肖像画 マルティン・ファン・マイテンス作
フランツ・カール大公の書斎にある 夫妻と4男、7女が描かれる 

ネプチューンの泉
ギリシャ神話の海神ネプチューンに祈る女神を中心とした彫像

 ベルヴェデーレ宮殿:トルコ軍からウイーンを救った英雄プリンツ・オイゲン公(1663〜1736)の夏の離宮。
オーストリア風バロック建築の代表格に挙げられる。
今は美術館になっている。上宮、下宮がある。我々は上宮の外観、庭園を見学した。

 
宮殿正門
 
宮殿の本殿(上宮)正面

 宮殿正面屋根をアップで
 
上宮と下宮の間に広がる庭園に美しいスフィンクスが

 庭園のスフィンクス辺りから市街の眺め
 
上宮と下宮間に広がる庭園から市内のシュテファン寺院
 
ウイーン市内に戻ってカールス教会
 
昼食を摂った市内のレストラン
 
シュテハン寺院:ウイーンの中心に聳える大寺院、12世紀半ばからロマネスク様式で建てられ、
14〜15後期にゴシック様式に改装された。南の塔は137m、1359年に完成した。

 シュテハン寺院正面
 
寺院を側面から見た
 
寺院の内陣左側手前に石造りの説教壇

 一番の繁華街ケルトナー通りからシュテファン寺院の尖塔
 
 観光馬車が待機している
 
左はウイーンの象徴国立オペラ座の正面、パリ、ミラノと並ぶ3大オペラ座の一つ。右はオペラ座の側面。
1869年、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」でこけらおとし。第2次大戦で破壊、1955年再建、ベートーベンの
「フィデリオ」で再幕開け、マーラー、カラヤン等の巨匠が指揮者に名を連ね、小沢征爾も音楽監督を務めた

 旧王宮部分のミヒャエル棟

 旧王宮のヨーゼフ広場に面した建物の屋根は凝った装飾

 1913年に完成した新王宮
今は3部門のコレクションが展示されている (狩猟・武器・古楽器)

 旧王宮に属するヨーゼフ広場
 
樂友協会:1812年、音楽文化普及のため、創建された団体。その本拠
地がこの建物、1870年完成した。大ホールと複数のホールがある
ニューイヤーコンサートはここで行われ、日本から多数が観賞に行く

 新王宮の近くにモーツァツトの像がある
 
王宮地域と道を挟んだ公園内にマリア・テレージアの像がある

 テレージアの像と同じ公園にある美術史博物館

 王宮近くから市庁舎の尖塔が際立って素晴らしく見える

 国会議事堂、遠くに市庁舎

 ウイーンの森:ウィーンの北西から南にかけ、広大な丘陵地帯を占める。その中にブドウ畑やワイン造りの村々をまじえて、緑美しい別天地をなしています。やさしく広がる丘陵、清らかな小川のせせらぎ、ひっそりと佇む教会や家々…。そうした美しい風景は、今までに幾度となく歌や物語に語り継がれてきました。なかでも、中心街から最も近いカーレンベルク、ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタット、悲劇の舞台マイヤーリング、温泉地バーデン・バイ・ウィーンなど、ウィーンの森の南西部には古い歴史を持つ教会やハプスブルク家のゆかりの舞台が点在しています。
6日目の午後、オプションツアーで、5人観光タクシーで訪れました。


 
ウイーンの森で訪れた地を示す

 ゼーグロッテ(地底湖)の入り口
ヨーロッパ最大の地底湖がある。石灰石を採掘中、1912年大量の
地下水が溢れだし、地下空間、坑道に水が溜まって、湖になった

 坑道を進む
 
昔の石灰石の採鉱作業を模型で展示

 大きく空いた空間

 階段で上り下りする程の高い洞窟

 多くの見学者

 昔は馬を動力として使っていた

 地底湖
 
地底湖を船で遊覧

 鍾乳洞のような地底湖
 
この洞窟でナチスは飛行機の胴体を密かに造っていた

 飛行機政策の様子 全体の組み立ては洞窟外で行う

 地底湖の構造図

ガストホーフ・ヘルドリッヒスミューレ
(その昔ここに水車小屋があり、裏に流れる小川のせせらぎ、小鳥のさえずりが聞こえた)
シューベルトはこの館に友人と滞在し、菩提樹を作曲したと云われる この館は今はレストラン

大きな 菩提樹が拝見された

 菩提樹の花が満開

ハイリゲンクロイツ修道院  名前は聖なる十字架の意味、キリストが磔にされた十字架の木片が運び込まれているとの謂れがある
バーベンベルク家のレオポルド3世により1133年に創建された。シトー派、中世の修道院施設がほぼ完全に保たれ、ロマネスク様式の身廊も残る

 修道院外観

前の法王ベネディクト16世が2007年訪れた、その記述がある 

 教会の尖塔
 
中庭にペスト記念柱がある
悩ませたペストが克服されその記念
ウイーンの街にもこのような記念柱がある
 
記念柱の上部をアップで捉える

 修道院教会の正面

 教会への入り口

 教会内部のステンドグラス

 教会内部は簡素
ハイリゲン

 教会のステンドグラス

  マイヤーリンク :この地を舞台にした悲劇で、その名が知れ渡った。1889年1月、ハプスブルク家の狩りの城に滞在していた既婚の皇太子
  ルドルフが17歳の少女マリーを道連れにピストル自殺を遂げた。城は皇帝の命で修道院に改築され、教会と共に今は公開されたいる。
  他の資料によると、皇帝と意見が合わなかった皇太子は悩み自殺、その道づれに少女を選んだとも云われている。
  次の皇太子は皇帝の甥に当るフランツ・フェルディナになった。この皇太子がバルカン半島のセルビアの首都サラエボで、セルビアの青年に
  殺され、その事件が第1次世界大戦の発端になった。その意味で、この心中事件は世界を揺るがす大戦を誘引したとも言える。

 マイヤーリンク修道院全景

 修道院教会正面

 教会内部

 教会のステンドグラス

 ルドルフの父、フランツ・ヨーゼフ1世

 心中事件を起こしたルドルフ皇太子

 母親のエリザベート

 心中の道連れになったマリーベツェラ

 マイヤーリンクの長閑な風景

 ウイーンの森から帰り夕食を摂った日本レストラン 日本橋

 レストランのメニューと値段

ウイーンの中心部の地下鉄入り口
 
乗った地下鉄

 地下鉄を降りた2つ目の駅
 
宿泊したホテル トレンド・アナナス
 
7日目は帰国日 ウイーン空港
 
成田行きのオーストリア航空

 成田へ後2時間足らず

 シベリア上空を日本へ