デリーへ250kmのバス・デリー市内観光


6日目:7:00ホテルを出発、一路デリーへ。デリー近くでクトゥブミナール(ミナレット)見学。デリーに入って昼食は
     久し振りの日本食。ムガル帝国第2代の皇帝のフマユーン廟見学。その後ムガール帝国第5代皇帝が
     アグラからデリーに都を移し建設したラール・キラー(赤い城)を外観だけを観る。バスの中からインド門
     を観て、最後はガンジーが時々身を寄せた、独立運動支援者宅で暗殺された場所を見学、空港へ。
     21:15の飛行機で帰国の途へ。



 
デリー市全体図  ・クトゥブミナールは枠外の南(下)にある  ・ラール・キラーはここに示したより今少し北側(枠外)


ジャイプール出発、砂漠が近くらしい風景 

デリー迄の中間地点(道の駅)で休憩

デリーへの国道(ジャイプール方向)

デリーへの国道(デリー方向)

デリーに近づくと立派なマンションと思われる建物が目立つ

スズキの車が沢山走っている(シェアー30%とか)

残骸のような塔 アラーイーの塔 基部直径25m
ハルジー朝(奴隷王朝後)のスルターンのアラウッディーンが、
クトゥブの2倍の高さの塔を建てようと1312年着工、
だが暗殺されて未完に終る

クトゥブ・ミーナールの基部 直径14.3m
インド最初のイスラーム王朝の奴隷王朝(1206〜1290)の
スルターンクトゥブッディーン・アイバクがヒンドゥー教徒に
対す勝利を記念で建設

(世界遺産)ミーナール全景:1192年着工、14世紀に
イールトゥミッシュにより完成、高さ72.5m、直径は基部14.3m、
頂部2.7m、5層、その上のドームは地震で落下した

インド最古のモスクの一部、入り口になっている

クワットゥル・イスラーヌ・マスジット 最古のモスクの回廊跡

旧モスクの残骸

見学に来た小学生

 左の小さなポール(鉄柱)は高さ7m、3〜4世紀グブタ朝のもの
サンスクリット語文字が刻まれる、鉄の純度は100% 錆びていない

デリーの日本レストラン「たむら」 

日本食は幕の内
 
Panasonic、SONY、SAMUSUNGなどの家電店街
 
街の真ん中にも屋台の店
 
フマユーン廟:世界遺産 左は入り口
ムガル帝国第2代皇帝フマユーン廟はその妃が1565年に建造した。庭園の中に廟を置く形式で、その後この影響を受けて建てられた
タージマハルに比べれば小さいが、インド・イスラム建築の傑作である。中央にドームを頂き、左右対称の建築は安定感が際立つ

 建物中央に白い大理石の棺が置かれる 遺体はこの真下に安置
 
皇帝以外の棺は他の部屋に複数安置されている
 
デリーは碧が多いと云われている
 
(世界遺産) ラールー・キラー:ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンはアグリからデリーに都を戻し、
新たに自分の名を冠したシャー・ジャハーナーバードを造営、これが今のオールドデリーで、
その中心にラール・キラー(レッド・フォート 赤い砦)は1639〜48に建設された 中へは入らず、外側のみ観る

 インド門: 車内からの見学
1911年、コルカタからデリーへ英領インド首都が移り、イギリス人
建築家に因って1931年完成した。高さ42m、一次世界大戦の
戦没者の慰霊碑でもある。門の遠くに見えるのは大統領官邸。

 ラージ・ガート:
ガンジーは暗殺後、ヒンドゥー教の作法に従い、ここで火葬された

 ガーンディー記念博物館入り口

 ガーンディーの日記より
刑務所は収容の場、懲らしめる場ではない
 
ガーンディーはインド独立運動の支援者の民族資本家
ビルラー財閥の邸宅にしばしば身を寄せ、住んでいた建物
生涯最後の144日をここで過ごした。インド門の南西に在る

 使っていたベッドと寝具
 
死の直前まで使っていた種々の品物

 Sard Patelと最後の会合を持っている処
1月30日、4:00〜5:00、それから祈祷に向かい暗殺された

 家を出て祈祷所に向かった通路の足跡
 
祈祷所の階段に歩みを進める

 1948年1月30日、17時17分、極右青年のピストルで暗殺された